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帰りは中野坂上の病院に正月用のお薬を貰いに行き、母のところに寄り、最後のゴールは父のところです。ずっと頼まれた洗濯物を背負って高尾山歩いていたことになります。なんて孝行娘だろぉ…

高尾山、京王線が通ったのは今から41年前。
戦前はこの電車は多摩御陵線として開通していたのに、貴重な鉄の線路を国に没収されて、そのまま、戦後しばらくは運輸省に書類で使用延期願いを出していたそうです。廃線にしてしまうと再度開通させるのはとても手間なので、京王帝都の運輸部にいた父が、毎年書類を作っては更新を重ねていたそうです。
ある日、父の上司の運輸部長だった人が、日曜日に父を呼び出し、車で多摩御陵と高尾山を回り「君はこの線をこれからどうするつもりだ?」と聞かれたそうです「いつもでも延期願いを出しているわけにはいかないだろう…」と。当時、高尾山は霊峰で、北野から歩いて向かうしかない、寂れた場所だったそうです。でも多摩御陵よりも観光資源はあるかもしれない…と父は「高尾山でしょうね」と答え、それから北野→高尾山口開通にむけて全力で取り組んだと話してくれました。
リフトを通し、高尾登山鉄道の98%の株を京王帝都で持ち、薬王院の境内を整備し…ほぼ100%京王帝都が中心となって、今の形になったのだそうです。

私が小学生高学年のころから数年は父は年末年始を高尾山に行っていました。高尾線が開通して初詣客がおしかけるために、運輸部の人は全員整理員として参戦していたのですね。

父は高尾山には特別思い入れのある人とは思っていたけれど…そんなに色濃くかかわっていたとは思いませんでした。
電車が近くまで行っていることも、もしかしたらミシュラン☆☆☆に選ばれる要因のひとつとなっているとすれば、若き日の父と上司の二人の思いが見事に結実した、ということでしょうか。

ちょっと嬉しくなりました。

頂上近くでみつけた、ベンチのホーローの看板に、昔懐かしいロゴとマークがありました。