【社会人ぜんそく終息〜結婚・出産ぜんそく再来】

出席日数がかなり危なかったものの、なんとか高校を卒業、400名近くいた卒業生の中で、唯一進学も就職もせずに、プーになった私は、マルチな花屋さんを目指して、バイト先の花屋さんだけでなく、いけばな・アートフラワー・パンの花といろいろ挑戦していました。

あるとき、母の勧めで、日本中央競馬会東京競馬場で職員に応募して、何故か就職することになりました。
ここでの仕事は厩舎関係の窓口と、開催業務。いわゆる競馬の準備やらなにやら諸々。他競馬場に出張に行く時は場内放送・競走成績。
緊張する場面はあるものの仕事自体が面白くて、ぜんそくもほとんど出なくなっていました。

なおったのかな〜という油断があったのか、22歳の時1月の東京競馬が終わったあとに風邪をこじらせて緊急入院、そのときお医者様が「肺の状態が悪い。いままで貯まっていた肺の汚物を全部きれいにするまでは退院させません」と言われて2週間、投薬と点滴メインの入院生活をすることになりました。

社会人として2週間も休むというのは、かなり気が引けるものですが、職場の皆さんが良くしてくださって助かりました。
退院後、騎手が入る調整ルームの寮母さんをしてらして比留間りんさんという方が「喘息は怖い病気だから…お願いだからこれ、飲んでみて」と「露恵」という喘息の漢方薬をくださいました。

肺をきれいにしたこと、露恵を飲んだこと、一人暮らしをはじめたこと、何が作用したのかわからないのですが、私の生活から「ぜんそく」が姿をすっかり消していました。
出張も楽しい、おやすみも楽しい、バードウオッチングに出会ったのもこの頃で、いつも喘息の影におびえていた生活をすっかり忘れていました。

28で結婚し、29歳で長男を、33歳間近で次男を出産。
小さい時から薬漬けの生活だったので、不安はあったものの、元気な子が生まれてほっとしたのもつかのま、33歳の9月のある日、いきなり視野が狭く動けなくなり救急車をお願いするはめになりました。

救急隊の人がみえて「あ、喘息発作ですね」と言われるまで、私の脳裏にはぜんそくのぜの字も思い浮かばないほど、私のぜんそくアンテナは遠くへ仕舞ったままでした。

11年ぶりの発作で運ばれたのは当時住んでいたマンションの2軒隣の病院、いま母がお世話になっている梶谷先生の御学友の駒崎先生のところでした。
先生ご自身が小児ぜんそくでお苦しみになったとかで、とても丁寧な治療をしてくださいました。

このぜんそく発作のきっかけは台風。
その年のベスト5に入る大きな台風が3つも、天気図上に出ていたのです。

この発作をきっかけに私のぜんそくとの闘いは、第2ラウンドに突入したのでした。