タマシギ♀のイケイケ日記

野鳥図鑑画家の夫と四半世紀。着物・きよしくん・演歌・“街森”・アメーバピグ、ときどきダイエット…。 AB型申年蟹座オンナの爆走の日々

ぜんそくのはなし

ぜんそくのはなし・6 不安に思っている人へ

このごろ、成人になってからぜんそく発作を起こすようになった方がいると、よく聞きます。
お友達がぜんそくを起こすようになって、どうしたらいいかしら?と聞かれることも多くなりました。

その時私は、自分が「ぜんそく」とどう付き合ってきたかをお話しすることにしています。

やみくもに恐がると、それはさらに恐怖心を呼び、ストレスとなり、発作がひどくなることもあるので、恐がることはない、と伝えます。

そのかわり、自分がどんな状況で発作が起きるか、思い出しましょうって言います。
きっかけはそれぞれ、ストレスが要因になることも、アレルギーが要因になることも、両方のこともあるので、信頼できる病院での受診と、アレルゲンの検査もあわせて受診することを勧めます。

まず信頼できるお医者様を探す、感性のあう先生と出逢う努力を、発作が起きる前にすることは、とても大事と思います。

そして生活の中で、例えば…

〇防虫パックの掃除機を使っていないか?
〇防かび仕様のエアコンフィルターをつかていないか?
〇防虫剤を無神経に使っていないか?

確認をすることもお話しします。
これらの製品のなかには、空中散布される農薬よりも濃い薬品が空気中に飛散するものもあると聞くので、無意識に、肺に負担がかかる空気を吸っている可能性があるからです。

〇添加物だらけの食事をしていないかとか、
〇化学繊維ばかりを身につけていて皮膚呼吸を妨げていないかとか、
〇体を押さえつける洋服を着ていないかとか、
〇睡眠はたっぷりとれているかとか
も、気になるところです。

汗も大敵。だからといって、汗は体の毒素を出す大事な分泌物なので、汗かくことはとても大事。そのまま放っておかずに こまめに拭く、こまめにシャワーを浴びるということも気をつけて。

私の日々の生活では、前記のNGものはすべて排除しています。
下着は皮膚に負担のない絹に。靴下も絹の5本指のもの。
体の冷えを呼ぶ、足の汗対策にこの5本指靴下に勝るものはありません。

発作はたいてい寝入りばなか、明け方に起きます。
そのときも、冷静に対応するように心がけることが大切。
苦しいのでまっ平らになって寝ることは考えない。背中に、お布団でもなんでもいいのでくるっとまいて寄りかかるようにすると楽になります。痰がでやすように水分補給を忘れずに。

あとは「ボルタレン」系の鎮痛剤には要注意。

いままで発作を起こしたことが無い人でも、アレルギー性鼻炎を持っている人は、かなりの確率で壊滅的な発作を起こすのだそうです。
私自身も、某病院で、上顎胴膿胞の治療を受けに行き、持病にぜんそくがありますと申告したにも関わらず、ボルタレンを処方をされたことがあります。

そのときは、顔が2倍に膨れるほど腫れて痛かったので、その場でボルタレンを飲んで、痛みはすぅっと引いたものの、帰り道、立っていられないほどの発作が起き、阿佐ヶ谷で途中下車、仁友クリニックにやっとの思いで行きました。

福永先生には「君は自分がぜんそくっていうことを言わなかったのか!?」と叱られ「いえ、ちゃんとお話ししました」というと、某病院の先生に厳重注意をしてくれました。

お医者さんのお勉強の初期の初期で、「ボルタレンはぜんそくにはNG」と習うことなのだそうですが、歯科とか整形外科とかでは、とても処方されることが多い薬とか。。
そして、いままで発作が起きたことが無くても、この薬で発作が起きパニックで大事になることもあるのだそうです。

歯科の麻酔とか、全身麻酔での手術とかの時も、ぜんそく患者であることはきちんと事前に言っておくことも大事です。

麻酔がかかっている時に、ぜんそく発作が起こると、大問題なのですって。自己コントロールができないからです。
全身麻酔の手術を二回体験しているのですが、そのときは麻酔科医の先生が5名チームでついて下さいました。病気そのものよりも、そちらの方に重きを置いていたと言っても過言ではありません。

そんななので、どうしても飲む必要があった胃カメラ、私は麻酔なしで飲みました。

確かにぜんそくは業病といわれるほど、憂鬱な病気であることに変わりないけれど、注意すべきポイントを押さえておけば、うまく付き合って行かれる病気と思います。

ぜんそくだからって、引っ込んでいてはだめだめ。
ネガティブ思考は発作の元、目線は常に前方上空の心意気。

旅行だって、プールだって、運動だって、なんでもしていいと思うのね。
でも無理に肺に負荷をかけるようなことはしない。
寝入りばなにご飯を食べるのも、寝たときに肺が押されるからNGですね。寝入りばなにケンカ、とかもだめね。
寝るとき、グーンと伸びをして、にっこり笑って寝るのは私としては効果があるように思っている。

もし、このブログを読んでくださっている方で、ぜんそくへの不安があれば、お手伝いできることがあるかもしれないと思って、6回にわたって記しました。
何かありましたら、コメント欄からお寄せください。

ぜんそくのはなし・5 仁友病院に通ってわかったこと

友達に教えられて行った、中野坂上の国際仁友病院は、とっても古めかしくて、ええええ?っていうくらい混んでいました。
いろんな匂いがして、小さい頃通ってた慈恵第三病院の木造病棟を思い出したほどちょっと苦手な感じでした。
ただ、ぜんそくにかける心意気は院内のあらゆるところに感じられ、確かに頼りになる!と直感しました。

阿佐ヶ駅前に分院の仁友クリニックがあるとわかり、家からも近いので、主にこちらに通って診ていただくことにしました。
当時はまだ「診療内科」があるのは、街のお医者様では珍しかったのですが、仁友クリニックでは心療内科も看板に掲げていました。

私の小さな頃は気管の炎症・気胞の炎症とだけ思われていたぜんそくが、時が経つにつれてアレルギー物質にも原因があるといわれ、そして心的要因からも起こることが徐々に解明されてきていて、病院では、いち早く心療内科も設置されたようです。

今は鹿児島に帰られた福永先生という男性の先生が、ぜんそくで死にかけた私に
「ぜんそくは自己管理の病気。自分がどんな状況で発作が起きたか、ちゃんと覚えておいて、早めに対処をすれば死ぬことはありません」
とおっしゃってから、ただばくぜんと「季節の変わり目」と「疲れ」がいけないかなぁと思っていた自分のの発作の「要因」を意識するようになりました。

発作が起きたらとめる、抑え込む治療から、発作を起こしにくくなる治療へ…というのはぜんそく人生40年近く生きて初めてだったので、かえって不安でしたが、先生のおっしゃる通りにしてみようと思いました。

私の発作の要因はまず「低気圧」でした。台風が天気図に乗る前に苦しくなることがわかりました。気圧の谷は、ぜんそくを起こしやすくするようで、まず、子どもが発作を起こし、その半日後くらいに大人の発作が起きることをしりました。

あとは「室内外の温度差」「化学物質への過敏な反応」あたりもかなり重要。無臭タイプの防虫剤を服にかけていた人が、横に立っただけで発作が起きるのです。

そして「ストレス」これはかなり大きなものでした。
ストレスなく日々を送ることはとても難しい。
でも強い自分にならなければ、ぜんそくには勝てません。
私は自分の中で、様々な優先順位をつけることにし、大事なものに目を向けることにしました。
いままで我慢していた、意に沿わない人とのおつきあいも、絶ちました。ご挨拶だけの関係にして、八方美人をやめたのです。

他には…

〇日々の予防のための薬を飲むこと。
これは吸入薬だったり、錠剤だったり、そのつど変わっていますが、自分に一番ベストな薬を頂いています。

〇発作が起きそうだと思ったら先手を打つこと。
台風の来そうな時には事前にわかるので、発作止めのパッチを貼ったり、吸入をしたりで備えます。
発作が起きてしまったら、何が何でも点滴を打ちに行って、早めに対処をしています。

〇水分を充分にとること。
発作時に痰が切れないととても大変なので、ともかく水分を多めに摂ります。発作時にはスポーツドリンクの大きなボトルを抱えて飲むほどです。

最初は戸惑っていたのですが、薬を飲むタイミングがわかってきてからは、救急車で運ばれるような大きな発作はおきなくなりました。

国際仁友病院は建て替えて、阿佐ヶ谷のクリニックと統合して、洒落た仁友クリニックに生まれ変わりました。
いまでも一カ月に一回ほど通って、様子を見ながら自分に合った薬を出していただいています。私は小さい時から鼻が悪く、それで口をあけて眠るのも発作の要因となるとのことで、並行して鼻炎の薬も使うようになりました。

ここの病院でいろいろな先生に教えて頂いたことが、いまの私の日々の基となっており、感謝してもし尽くせないほどなのです。

ぜんそくのはなし・4

【臨死体験〜仁友病院に行くまで】

33歳の9月に戻ってきたぜんそくは、独身の頃よりもかなり厳しいものでした。

当時長男が幼稚園年少さん、次男がまだ生後半年で、とても手のかかる時期だったこともあって、朝のお弁当づくりから、夜中の授乳のまで、睡眠不足が重なっていました。

寝る暇はなくて当り前の時期ですが、ずっかりぜんそくが治ったと思いこんでいたので、大誤算です。
駒崎先生からは「台風が通過する時は気をつけなさい」と言われていたのですが、薬を飲んで寝ても、真夜中に発作が起きます。
わずか2軒先の先生のところまで、救急車で行かなければいけないほどの発作のこともあり、何回も119番のお世話になりました。
高司が車いすで運んでくれたこともたびたびでした。

ぜんそくの薬は強いので、先生がとても神経を使ってお薬をだしてくださっていたのですが、薬もなかなか効きづらくなっていました。
39歳の5月29日、それはそれは激しい発作が起きて、しばらく入院することになりました。
酸素吸入と並行し、何をやっても発作が治まらずに31日の夜半、気づくと私は、夜明けの空のような美しい暁色の雲の中にいました。

ほわほわと温かく、よい香りもしてきます。

2メートルほど離れた場所に、2年前に亡くなった舅のシロウさんが座っていました。シロウさんは、善福寺池のホタル再生を試みていて家で何千匹もの幼虫の世話をしたのですが、その時来ていた紺色のパーカ―姿でにこにこと笑っています。

「りっちゃん、おいでよぉ。こっちは暖かくて気持ちいいんだぁ」

と、大好きだったにこにこ顔で手招きをするシロウさん。

『あ、そうか息をするのが苦しいのなら、息、とめちゃえばいいんだ…』

と思ったら、すごく離れたところに、もう一人誰か座っているのがみえました。

『あ、おばあちゃんだっ!』

父は3番目の姉のところに養子に入っていたので、この伯母のことをおばあちゃんと私は呼んでいたのです。実子がなかったので、母のことも私たちのこともとても愛してくれた伯母で、私も大好きな人でした。会えば喜んでくれるはずの伯母が、私の方を険しい目で見て、首を振っています。

『おばあちゃんが来るなっていってる』

『あ、そういえばお友達がハワイで買ってきてくれたCOACHのバッグ、まだ使ってなかったなぁ』

と思った瞬間、病院の天井の角からの視線で、ベッドで苦しんでいる自分、心配そうに手で吸入器を押す先生、看護婦さんが見えました。

「りっちゃん、ダメだよ、息しなきゃ死んじゃうよ」

と先生の呼びかけで、ハッと目を開けたら、入院している病室だったのです。
この時の血中酸素は68%。かなり危ない数値だったようです。

臨死体験とか幽体離脱なんて、作り話とそれまで笑い飛ばしていたのですが、自分で体験すると、ホントにあるんだ…とかなりぞっとしました。

シロウさんと私の間にあったのがおそらく三途の川でしょう。そしてあちらが彼岸。
まだその頃、親しい人でなくなっていたのは、伯母とシロウさんだけだったので、彼岸にいたのはその2人だけでしたが、もし仲良しさんがいっぱいいたら、ふらふらとあちらに行っていたかもしれません。

39歳の5月31日、私は一回死んでいる…と思ったら、それから怖いものは無くなりました。
ただ、押さえるだけの治療には限界があると確信をしたので、予防医学をしてくれる病院を探そうと思いました。

手近なところで武蔵境の日赤病院に行ったのですが
「よく血中酸素68%で生きていましたね、こんな弱い薬をのんでいては発作はおさまりませんよ」
と内科の先生は強い薬を処方しようとしました。
私が欲しいのは強い薬ではありません。強い薬だと動悸がしたり脂汗が出るので駒崎先生が工夫を重ねて今のお薬を出してくださっているのですから。

そして、少し遠いけれど、友人が進めてくれた中野坂上の国際仁友病院(当時・現 仁友クリニック)へ行くことにしたのです。

ぜんそくのはなし・3

【社会人ぜんそく終息〜結婚・出産ぜんそく再来】

出席日数がかなり危なかったものの、なんとか高校を卒業、400名近くいた卒業生の中で、唯一進学も就職もせずに、プーになった私は、マルチな花屋さんを目指して、バイト先の花屋さんだけでなく、いけばな・アートフラワー・パンの花といろいろ挑戦していました。

あるとき、母の勧めで、日本中央競馬会東京競馬場で職員に応募して、何故か就職することになりました。
ここでの仕事は厩舎関係の窓口と、開催業務。いわゆる競馬の準備やらなにやら諸々。他競馬場に出張に行く時は場内放送・競走成績。
緊張する場面はあるものの仕事自体が面白くて、ぜんそくもほとんど出なくなっていました。

なおったのかな〜という油断があったのか、22歳の時1月の東京競馬が終わったあとに風邪をこじらせて緊急入院、そのときお医者様が「肺の状態が悪い。いままで貯まっていた肺の汚物を全部きれいにするまでは退院させません」と言われて2週間、投薬と点滴メインの入院生活をすることになりました。

社会人として2週間も休むというのは、かなり気が引けるものですが、職場の皆さんが良くしてくださって助かりました。
退院後、騎手が入る調整ルームの寮母さんをしてらして比留間りんさんという方が「喘息は怖い病気だから…お願いだからこれ、飲んでみて」と「露恵」という喘息の漢方薬をくださいました。

肺をきれいにしたこと、露恵を飲んだこと、一人暮らしをはじめたこと、何が作用したのかわからないのですが、私の生活から「ぜんそく」が姿をすっかり消していました。
出張も楽しい、おやすみも楽しい、バードウオッチングに出会ったのもこの頃で、いつも喘息の影におびえていた生活をすっかり忘れていました。

28で結婚し、29歳で長男を、33歳間近で次男を出産。
小さい時から薬漬けの生活だったので、不安はあったものの、元気な子が生まれてほっとしたのもつかのま、33歳の9月のある日、いきなり視野が狭く動けなくなり救急車をお願いするはめになりました。

救急隊の人がみえて「あ、喘息発作ですね」と言われるまで、私の脳裏にはぜんそくのぜの字も思い浮かばないほど、私のぜんそくアンテナは遠くへ仕舞ったままでした。

11年ぶりの発作で運ばれたのは当時住んでいたマンションの2軒隣の病院、いま母がお世話になっている梶谷先生の御学友の駒崎先生のところでした。
先生ご自身が小児ぜんそくでお苦しみになったとかで、とても丁寧な治療をしてくださいました。

このぜんそく発作のきっかけは台風。
その年のベスト5に入る大きな台風が3つも、天気図上に出ていたのです。

この発作をきっかけに私のぜんそくとの闘いは、第2ラウンドに突入したのでした。

ぜんそくのはなし・2

【小学校〜高校】

小学校に上がってもぜんそくが良くなる気配は全くなくて、特に3年生の頃までは学校を休んでばかり。

私の記憶に鮮明に残るのは、化繊のピンク地に金糸で菊の花を刺繍した掛け布団と、天井の木の模様。本ばかり読んで過ごしてました。

武蔵野医院の先生は「海のそばに引っ越す?」と常々おっしゃっていたの。で、小学校一年の夏休みに伊豆の海にデビューしたら、その晩具合が悪くなって、海との相性が悪いことが分かって凹みました。

電車通学だったのですが、東府中の踏切を走って渡っただけで3日も休む情けなさで、体育は6年間全休でした。歩くのと階段をのぼるのと降りるのと、基本動作は3つだけ、下手すると階段登るのもしんどいくらい。

みんなは体育が楽しいというけれど、左のぽっけにちり紙、右のぽっけにハンカチ入れて、教室の窓の中から見学している私には何が楽しいのかわからずじまい。

小学校6年の時の担任の先生が、「出席日数が足りないと上の学校に行ってもしんどいから」と私立受験を勧めてくれて、なんとなぁく仙川の桐朋女子に入って6年間過ごしました。

学校は楽しいもんなんだ♪と思って、気分が前向きになって、生れてはじめてバレーボールの授業に参加したりしていたのですが…
八ヶ岳合宿では、甲斐大泉と学校寮の道が急な山道で、行くたびに往復死ぬような思いをしました。薬を飲んでも治まらない発作って怖いものなのです。

父が家を新築した高校2年のときに、激しい発作が続いて、半分も学校に通えなくなりました。いま考えればハウスシック症候群だったのでしょうが、当時、化学物質過敏症なんて言葉はまだなかったように思います。

発作を起こすと1昼夜で2Kgは体重が減ります。
苦しくて水も飲めないので、しょうがないのですが、スポーツドリンクがあったらばずいぶんと展開が違っていたのではないかしら。

ぜんそく患者は元気な時しか出歩けない。発作の時はひたすら安静。でもそのギャップが、「おさぼりさん」に見られがち、なかなか理解が得られない病気なのね、というのを痛感しはじめたのもこの頃でした。

小学校の時は国立小児病院でアレルギーのパッチテストを、高校に入ったあたりから狛江の慈恵第3病院耳鼻科で、アレルギー性鼻炎の治療を開始したのですが、アレルギーの原因はわからないまま。

当時は、蕎麦・ダニ・ほこり・花粉などのアレルゲンを一つ一つ背中や腕に注射して反応を見るので、この検査は大嫌いでした。
腕や背中を針穴だらけにして、じぃっと腫れてくるのを待つのですが、結果が出ない…けっこう凹んだものでした。

大人になるとなおる小児ぜんそくとは、やっぱり違うのかぁと、溜息ついたりしていた、花も十八番茶も…の乙女の私だったのです。

ぜんそくのはなし・1

【発病から幼稚園】

私が喘息になったのは生後11カ月、肺炎で狛江の慈恵第3病院に入院した後のことだそうです。

もちろん本人に記憶はないのですが、寒くなっても、咳を一つしても、両親の心配そうな目がいつも私に向けられているのを、物心ついたときから敏感に感じてはいました。
咳を何回か続けてすると、親が気構えるというか、くるぞっていうか、そんな感じですね。

当時かかっていたお医者様は、武蔵野医院という町のお医者様で、母に背負われて何回、時間外にこの病院に通ったかわかりません。

診療時間内に行く時は、とても混んでいる病院だったのに、いつも割り込みで先生がみてくださいました。

今考えると怖いのですが、静脈注射の太いので発作止めをゆっくりと呼吸に合わせて打ってもらって、裏のベッドや待合室で安静にして、発作が治まるのを待ったものでした。

先生が
「りつこちゃん、ゆっくり打ってるから大丈夫だよ、こないだも、よその病院でこの注射を早く打って亡くなった人がいたけれど、先生は大丈夫だから」
というのを聞きながら『なんで、病気をよくする注射で人が死ぬんだろう?』と思ったものです。

おそらくかなり心臓に負担のかかる薬だったのですね。
そして先生はご自身でそれを口にすることで、気持ちを落ち着けていたのかもしれません。この先生に診て頂かなければいまの私はいなかったと思います。

幼稚園の入園式も行かれず、皆勤賞は夏休みまでの少ない登園日しかなかったほど、ほんとに良く発作がでていたせいか、私の幼稚園の記憶はとっても少ないのです。

でも、武蔵野医院は、壁や玄関、診察室の光景、匂いまでも、いまでもくっきりと思いだすほど。私の命を守ってくれた揺り籠のような場所でした。

東京都大気汚染医療費助成制度

私が認定を受けたのは、大気汚染医療費助成制度という、東京都独自の制度です。

大気汚染の影響を受けていると推定される疾病=気管支喘息に対する医療費の助成をしていただけるもので
1.気管支喘息もちで 
2.都内に一年以上住んでいて 
3.健康保険に加入している 
4.非喫煙者が対象になります。

私の場合は
1.生後11カ月からずぅっと喘息もちで
2.生まれたときからずぅっと都内に住んでいて
3.国保に加入していて 
4.床屋の軒先でタバコ屋をやっていた家の
  嫁だったにもかかわらずタバコ吸えなくて
しかも、結婚して半年後から今まで約25年、3回引っ越しはしたものの、3回とも青梅街道沿いのマンションに住んでいるので大気汚染のまっただ中で暮らしていて、今に至っているのが現状です。

この制度は平成20年から助成の範囲を広げたとのことで、今回私も担当のお医者様に相談し、申請を決意しました。

申請するにあたっては、まず市区町村の保健所・保健センターなどの窓口に行き、申請書を頂いてきます。
頂く際に、上記4点の確認がありました。

その書類を持って、かかりつけの病院に行き、申請の旨を申告したうえで胸のレントゲン写真をとり、血液検査をし、さらにたっぷり時間をかけて肺機能を調べてもらいます。
それらを総合的に判断し担当のお医者様、かなり細かい申請票に記載をしてくださって、病院関係は終了。

そして、自分自身の申請書と、質問票に答えを記入して、一カ月以内にとった住民票を添えて、窓口に申請しに行くのです。

申請には申請料はかかりませんが
・血液検査代・レントゲン代・肺機能検査代・書類作成料で1万円弱、それと別途住民票代が必要でした。

検査によっては以前やったものでもOKとのことでしたが、私の場合、血液検査なんてここ10年はしていなかったので全てうけることにしました。
肺機能は6種類くらいの細かい検査をしました。
だから肺年齢78歳と言われても、今度がんばる!とかいう段階ではないのを痛切に感じたほどです。

助成の範囲は気管支ぜんそくに係わるものみので、機械のレンタル代や、万一入院した時の食事代や健康保険適応外の差額ベッド代などは対象外だそうですが、お薬代はとても助かります。

都の税金で助成を頂くのですから、これから時々、ブログで喘息のことも書いて行こうと思います。

大人になってから喘息もちになると、ホントに辛いらしい。
生後11カ月からの喘息持ちで、私学に行ってても出席日数が不足で卒業微妙だった筋金入りの私も、実際、39歳の時に発作で臨死体験までしたときにはびびりました。

今は、いい病院と出会い、発作が起きる前、起きたとき、起きた後の対処ができるので不安は少なくなっていますが、NGなものは多々あります。

それらをつらつら綴っていきたいと思います。
気が向いたらおつきあいくださいね。
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